ジェイドの私室。大きな本棚には、びっしり本が詰まっている。水時計が置いてあり、他にも、機械の部品や歯車などがオブジェとしてあしらわれている。薄明るい室内は不思議な空間だった。
ジェイドは、本棚に凭れて魔法書を読んでいる。椅子に座れば良いのだが、没頭するとついそういう存在を忘れてしまう。
「ジェイド!」
扉が開くと、青い髪をした少女が飛び込んできた。
「どうした?」
優しい腕の中で少女は安堵した表情を浮かべた。
「怖い…夢を見たの…。」
「夢…大丈夫だ、お前には…俺が居るだろう?シアラ…。」
「うん…」
少女は不安を打ち消したくて、背中に回した腕に力を込める。
「あのね…ジェイドの事、思い出そうとするのに…ダメなの。ジェイドの事、もっと知りたいのに…。」
「これから知れば良い。時を重ねれば、自然に分かってくる…焦る必要はない…。」
「でも…どうして忘れてしまったのかな?ジェイドの事、忘れるなんておかしいよね?」
いつもそうだ。過去の話を持ち出せば、ジェイドの瞳は悲しげに沈む。だからこそ、胸の中の不安は晴れない。彼の悲しみの原因は過去の自分、そう少女は思っていた。そして、その悲しみを癒してあげたい、救いたいと願う気持ちがますます失った記憶を追い求めてしまうのだ。
「構わないさ…過去の事なんて、気にするな。俺は、お前が…お前でさえ居てくれれば、それだけで十分だ…。」
「うん…。」
瞳を閉じる。彼はきっと悲しそうに微笑んでいる。そんな表情はきっと今の自分に見る資格はない。
「私…ジェイドの事、好きよ?」
指先で彼の唇に触れた。
「俺も、お前が好きだよ、シアラ…。だから、急がなくても良い。自分の心を偽るのは、お前には似合わない。お前が…心から俺の事を好きになってくれるまで、俺は待つから…。」
やんわりと唇に触れた指先を外される。いつも抱きしめてくれる優しい腕、その心地よさは知っているが、こんな風に拒絶されたのは初めてだった。
「うん…ありがとう、ジェイド…。」
ゆっくりと少女は離れた。本当は離れたくないと瞳が語っていたが、ジェイドはそれを見ないようにした。
「部屋に、戻るね…。」
そっと部屋を出た。そして、自分に与えられた部屋に飛び込むとベッドに倒れ込んだ。
「私…」
胸が締め付けられる。自分を見ない瞳。そんなものは見たくなかった。
「ジェイドの気持ちが解らないよ…」
あんな風に拒絶されるなんて思ってもみなかった。ジェイドはいつも優しかった。自分を受け入れられないのは記憶を喪った所為?それとも――?
(私たち、一度だって接吻けを交わした事がないのよ…)
扉の閉まる音がして、ようやく彼女が去って行った事に気付く。
(ひどい事をした…今の彼女は私だけを頼りとしているというのに――)
扉を叩く音がする。
「…誰だ?」
「失礼します、ジェイド様。」
「フィッシュか…。」
フィッシュは部屋に入ると一礼してから話し始めた。
「良い…いえ、悪い知らせかもしれませんが…あの男が、こちらに向かっているそうですよ。」
(リュート=グレイ…)
「そうか…。」
何故か落ち着いている自分がいた。罠を仕掛けたのはこちらだが、事が上手く運んだというのに何の感慨もわかない。
「宜しいのですか?」
「何を、だ?」
静か過ぎるジェイドの態度にフィッシュは焦れた。
「このまま…逃げてしまえば良いのです!」
フィッシュは混乱していた。自分で口にした言葉が信じられないというように。
(私は…)
「貴方は…貴方にはそうする権利があるはずだ!私は…。」
それは自分でも気が付かなかった願いだった。ジェイドには感謝をしている。だが、余りに人間に傾倒しすぎる所は気に入らなかった。魔族として生きると決めた時から、人間である部分を全て切り捨てた自分には、ジェイドの持つ純粋さは毒にさえ思えた。
(私は貴方に生きていて欲しいのだ…)
「良い…何も言うな…。」
ジェイドは微笑んだ。
「私は戦おうと思う。我が過去、我が罪、そして…運命と――。」
そこには迷いはなかった。
「それでは、私はそれをお助けしましょう、ジェイド様…。」
再び、一礼してからフィッシュは部屋を後にした。
「私は、本当はもう、分からないんだ…」
ポツリと呟く。
(彼女を求めているのか、いないのか。)
「ただ、もう二度と失いたくない…。」
無意識に両方の拳を握り締めていた。
彼女の笑顔は、君とは違っていたのに…君の名前を呼べば、君の姿になる。
君の、本当の名前を知らない私には、そうするより、他になかったのだけれど…。
彼女に惹かれれば惹かれる程…君との違いに立ち止まってしまう。
だけど、君の影を映してなぞらえたなら、彼女は彼女でなくなっていく…。
それが私の望みだったのか?それとも…?
続く